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メディアや企業に思うことから
最近のニュースでもエアコンをつけず(暑い夏に)熱中症などで全国で何人かの方が亡くなっているそうです。そのため、現在はCMでも節電の呼び掛けはしなくなったそうですが。
また、良く「うつ病は風邪のようなもの・・・」と耳にしますがあれは完全な間違いです。製薬会社などが宣伝のためCMなどでながしたため、メディアでも良くそう言う方が増え一般に広く信じられるようになりました。実際にはそんな生易しい病気ではなく、間違った認識のため苦しむ心の病の方が増えたのです。
風評被害も同じ道理です。メディアや企業の責任は非常に重いと言わざるえません。上記の事実は、氷山の一角でありメディア(情報)に多くの影響を受け潜在的に(正確であれ嘘であれ)かつ受動的に受け入れてしまっている・・・その悪い例が上記です。
インターネットの普及などメディアの過剰な情報にもはや現実よりも非日常にある情報量が圧倒的であるために人は正確な判断を失いつつあるように思います。正確な判断を行うにもそのプロセスとして正確な認識が不可欠ですが、圧倒的な情報に対して正確に認識することは極めて困難になっているのでしょう。
企業や政府(政治)にその大きな責任があるのは議論の余地はありません。また、宣伝にしろ、広告にしろ、週刊誌やスポーツ新聞の記事、インターネット、TV、あるいは新聞までもが、利益、利権、保身などにより、情報という巨大な力を使い情報操作してきた(悪意がないにしろそこに責任は伴う)ことには上に同じく大きな責任があるのも論をまたないところでしょう。
結局は一人一人が情報を鵜呑みにせずに正しいのか正しくないのかを認識していく以外に対処の方法がないのが現実です。正しき認識をもつにはその根拠となる思考の正しき軸が必要となります。倫理観、道徳観、そして事象を正く認識・判断していく思考プロセスにおいて、常に客観性・主体性・能動性・(科学的な意味での)懐疑的又は論理的な思考をもつために今こそ「哲学」が重要になるでしょう。
裁判において一番大切なことは冤罪をださないこと、99人を助けるために1人の犠牲をやむえないとする考え。
上2例は対極に位置する論理にもとずいています。
マイノリティ(個を元とする時)であるときそこには顔があり、マジョリティ(全体として見た時)であるとき個性はなくなります。
個の集まりが地域、社会、国であり、個の存在なくしてマジョリティはあり得ないのです。
論理的思考のプロセスは(少なくともある程度の)正しき認識に帰結します。 ロダンの「考える人」は私には哲学の重要性を訴えているようにも思えます。
善とは悪とは、正邪とは? 幸福とは何なのか。 哲学の存在意義はまさにこの問いに応えることのできる唯一の答えでしょう。
科学・政治・経済であれ人類に有益であるためには、正しき哲学の土台が不可欠になります。全ての事象には善と悪や光と闇が存在するのですから。
どちらを選択するかが、人間の権利であり義務であり責任なのです。
最後に・・・ある偉大な地理学者が質問しました。 「悪を為すのと善を行わないのは同じか否か」と・・・。答えは同じです。私も最初は何故その答えになるのか解りませんでしたが、論理的プロセスをふんだときその答えの意味が理解できました。
「考える人」・・・良く考えると不思議な言葉です。何故なら人は考えるものなのですから。